夜中布団の中で考えること

夜中に寝れなくなった時に考えたことをぽつぽつと書いていきます。専らやらなければならないことのメモ。

四十九日① 愚痴の方

年金の手続きだけを残して、父の没後の手続き類はほぼ終了した。

中には面倒の為手抜きになってしまったものも幾つかあるが、準備なし遺産なし親族の協力は微々たるものの状態から最低限やったつもりなので、そこは許して欲しいと思う。

 

今回手続きをする上で、自分が死ぬ前にある程度整理しておかなければならない事を見つけることが出来たし、本当に頼りになるのは結局自分だけだということも分かった。

気が落ちている間はどうしても余裕がなくなるので、自分の思う通りに行かないと苛立つ。

そして人に任せる事を面倒だと思い、果ては邪魔だと思う。

結局自分でやったほうが早い、なんで二度手間になるのに任せたんだろう、等嫌なことばかり考えてしまう。

それを避けるためにも、余裕が無い時は基本的に自分が全部動いておくべきで人に期待をするものではない。

たとえ実母だろうと、主人だろうと、自分の性格上納得行く結果が得られないと不満に思う以上頼ることは逆に失礼なのかもしれない。

もちろん手伝いや気遣いはありがたく受け止めています。

 

(この辺で収拾の付かない愚痴を800文字くらい書いてありましたが無意味なので削除します。)

 

仕事で目が回るほど忙しい時はむしろステータスアップするタイプの自分でも、肉親の死でステータス異常が付いている時は逆効果みたいですね。

 

とにかく、余裕が無いということはすべてに対して悪影響なのでした。

今後はまず余裕を生み出すことを一番に考えて動いてみたいですね。

冠婚葬祭②

夫が言うには、残業でへとへとになって帰宅したら「スマホ見てないの?」と唖然とした嫁が立っていた、らしい。

夫は残業の後、とにかく疲れたので帰って休みたいと急いで帰ってきたばかりで大変だっただろうに、私のスマートさの欠片もない報告によく耐えてくれたと今更思う。
危篤だと連絡が来た、しか言わない私に、夫は今から行くのか、行きたくないのかどっちかとしか聞かなかった。
散々ごにょごにょ言ったあとに行く、と返事をしたら、じゃあ、まず着替えて。と当たり前のことを指摘された。
この時点で寝間着のままだった自分の混乱ぶりが良く分かる。

夫が会社に電話しているのを見て、ようやく動き出せるようになり、三日分程度のにもつを鞄に詰め込み、家を空ける準備に取り掛かった2時半頃。

病院からの2回目の電話が鳴った。

その電話に出るとき、もしかしてという気持ちと早く来いという催促じゃないかと言う気持ちは未だに半々だったのは覚えている。

看護士の言い方は曖昧だったが、言いたいことは伝わった。

死亡の確認は基本的に親族の前で行うが、遠方の場合は病院側で済ませることもできるし、到着を待って確認することもできる。

つまり、その時点で終わっていた。
危篤の知らせからわずか一時間で、孫を見せることなく他界してしまった。

看護士からの電話は夫に引き継いでもらった。
良く分からないが、その瞬間はこの看護士さん曖昧な言い方をするなとか、はっきり言いなさいよとか、そんなどうでもいいことで頭がいっぱいだった。

そこからは普通に鞄に荷物を詰め、娘の荷物が一番多くなるねとか簡単に会話しながら準備を終わらせた。
行きがけにコンビニに寄って、眠気覚しのコーヒーを買ったり水道料金を支払ったりした。
夜食に買ったおにぎりを食べて、仕事で疲れているのに運転してくれている夫の横で1時間ほど寝かせてもらった。

病院についた頃には日の出の時間も過ぎていた。
ナースセンターの近くまで行くと、こちらに気付いた看護士さんが病室へと案内してくれた。
どの看護士さんも口々に、遠いところからお疲れ様ですとか、こんな小さいお子さんがいるのに大変でした、と労ってくれて、病院で未だかつてない厚い待遇を受けた。
それくらい病院にトラウマがあるのかと自分でも驚くほど根に持っていることが判明した。

病室には、白いバンドで顎を固定された父が居た。
そのままにしておくと、口があいてしまうらしい。
ドラマなどでは口は皆一様に閉じている記憶しかないが、死後硬直のなせる技だったのだろうか…。
病室でしばらく待った後、担当の医師が死亡確認しに来てくださった。
父は救急で運ばれた後、衣類を持ってくる前に無くなったようで病衣以外持っておらず、夫が最近着ていなかったシャツとボトムを着せられた。
下着が要るのか確認しないでかけつけたので、念のため購入してきた男性用下着は無駄になった。

手続きを待っている間、とにかく疲労していた夫は病院のロビーや患者食堂などて細切れの睡眠を摂り、少しでも体力の回復をしてくれた。

結局この日、市役所にて手続きをこなしている間に車のシートで1時間半程寝て、夜の9時まで夫は運転手を努めてくれました。

良く考えたら細かい手続きについては書く事ないというか、書きづらいし詳細は書けないという。

現在は父の遺骨と共に山梨に帰ってきましたが、まだ手続きは残っているという。
全部終わったら、必要だったものや手続きについて備忘録的に書こう。


ちなみに、私はやらなければいけないことが多くて動かざるを得ない為いつも通りでしたが…主人は風邪、娘は最初は大人しかったけど知らない場所、よく吠える犬、知らない人、車での移動にストレスが溜ってしまってお腹にきてしまったようです。
他に縁無しだから私が動かざるを得ないし、状況的にはしょうがなかったけど可哀想すぎた…。

ここ二日は好きなだけ遊ばせて、いっぱい一緒にごろごろしてます。
土日は事務手続きできないから、焦ってもしょうがないので。

今回ある程度手続きして分かったことは、

いらないものは捨てよう

家具家電は最低限にしよう

生命保険に入ろう

ですね。
残される人のことを考えたら、下手に死ねないのは間違いない。
今後の目標ができました。

冠婚葬祭

夜中布団の中で考えること、というテーマではてブロに登録したわけですが…既に五時。
夜中どころか明け方になってしまいましたが、お日様が出るまで今は布団の中に居させてもらいたい。

冠婚葬祭…私はあまりこの類のものに縁があるわけではなかったが、今月の15日には結婚式、19日には斎場に赴くこととなり生活がたいへん慌ただしかった。

15日の結婚式は終わってしまえばそれまで、しかし葬儀の件については他人事ではなかった。

18日の深夜、私の父が亡くなった。
こういうことについての書き方の知識も少ない為、どのように書けばいいのかもよくわかっていない。
享年七十五歳、入院先での病没だった。

父とは生前一般的な過程における、良好な関係では無かった。
私は父のいろいろな部分に納得が行かず、自分が自立した後に搾取されることを恐れて逃げていた為だ。
今回連絡があったときも、お金の無心や身の回りの世話を恐れた。

最初の一報は17日の朝。危篤の知らせではなく、病状が不安定の為今後連絡を取れるようにしておきたいという病院からの打診だった。
実子の縁というものは夫婦と違い、切ることはほぼ不可能だった。夫との相談の末、最期を迎える前に後悔しないように孫を見せに行こうと結論を出した。
次の休みに3時間ほどかけて病院に行き、今後への覚悟を決める予定だった。

危篤の知らせが届いたのは18日に日付けが変わった深夜2時過ぎ。
夫がいつもより帰りが遅い日だった。

最初の一報を軽く見ていたというか、過去何度も命に別条無しの連絡で病院に呼び出されていた私にとって、この危篤の知らせは予想外のことだった。

子供を寝かしつけた後、離乳食のまとめ作りなどをして夫の帰りを待っていたので何も準備ができていない。
夫もまだ帰らない、義父の危篤で会社に連絡して良いかも分からない、慶弔でどれだけ休めるかもわからないし、もし持ち直したら?最悪の場合が起きたら私が喪主?葬儀の費用や現住所の手続きも全部私の責任?お墓は本人が縁無しの為入れる場所もない、今から0歳9ヵ月の乳児を連れて深夜の3時間ドライブ、しかも運転手は仕事終わりで疲れきっている夫か、父の危篤で正直動転している私か。
とにかく挙げきれないほどの負担がその時点で発生したのを感じた。
思考がまとまらないまま部屋をうろうろした。
昔から考えがまとまらないときは部屋をうろつくタイプだった。
ちなみに電話をしているときも同じだ。

結局、2時を少し回ったところで夫が帰宅するまで混乱は続いた。
肉親の死は思った以上に自分への負担が大きいものだった。

疲れたので休憩。